古川日出男「馬たちよ、それでも光は無垢で」

馬たちよ、それでも光は無垢で

 

古川日出男

新潮文庫

< 私はどこを、どう撫でれば真の意味での慰撫になるかの見当もつかないままにその馬も撫でた。レースで一緒になった競走馬を騎手が褒めてやる時の仕種を見知っていたから、それを真似しようとして、ほとんど無様に失敗した。ほんの少々も安心を与えられなかった。

(中略)

 私は馬たちに、放出される放射線は目に見えないのだ、と説明することもできない。快晴のこの日の、この昼、見えない物質があってそこから見えない粒子が放たれていて、いまも天上から降っているのだとは説けない。そもそも光は光だから、見えない。これほどの晴天なのに。いいや、晴天だから。>

福島出身の作家、古川日出男

古川日出男氏は1966年、福島・郡山市生まれの作家です。98年に「13」で本格的にデビュー。01年に「アラビアの夜の種族」で日本推理作家協会賞と日本SF大賞をダブル受賞し、以後、第一線で活躍を続けています。豊かな空想で構築する世界観と疾走感のある文体を特徴として、多くのファンに支持されています。

2011年3月11日に発生した東日本大震災により、古川氏は「福島出身の作家」としてクローズアップされることになりました。「馬たちよ、それでも光は無垢で」は震災直後からの数か月間に、古川氏自身が故郷でもある被災地を取材した経験などをもとに執筆されました。

東日本大震災に見舞われた福島を、混沌のままに表現した小説

「馬たちよ、~」は一読して、非常に不思議な小説です。「不思議」とは、「ミステリアス」でも「不可解」でもなく、「混沌」というのが最も近いニュアンスです。小説自体は古川氏自身である「私」が、新潮社の編集者たちとともに震災発生直後の福島・相馬市へ取材に赴き、そこで見聞し、感じたことを綴っていきます。「私」たちが立ち寄る至るところには、震災による津波や福島第一原子力発電所の放射線漏れの深い爪痕が刻まれています。それらのディテールを描く本書は、まずノンフィクションやルポルタージュとして大きな価値を持っています。

だが、本書は単なるノンフィクションやルポルタージュにとどまりません。

例えば本書には…

相馬市を舞台とした古川氏の代表作のひとつ「聖家族」の主人公、狗塚牛一郎が登場します。(牛一郎は「私」と東日本大震災直後の福島で”実際に”再会し、会話を交わします)。

古川氏の震災前後の回想・行動などが、前後の脈絡なく描かれます。

福島や相馬市の歴史が紐解かれます。その時間軸のレンジは戦国時代や神話の時代など、非常に幅を持っています。

上記のような、小説としては一見すると一貫性がないともいえるパラグラフ、章立ての重層的な連なりで、「馬たちよ、~」は構成されています。

小説の混沌さが表現する「東日本大震災、福島」の真実

私は本書を一読してまず、「古川日出男は震災に見舞われた故郷の現実を目の当たりにして、深く混乱したのではないか。その混乱ぶりがこの小説に表れてしまったのではないか」と思いました。大切な故郷、そこにいる大切な人々が受容するしかない現実に打ちのめされて、混乱する。それは誰にでも起こりえることで、この感想もまったく的外れではないと思います。

だが、私は「絶対にそれだけではない」とも確信しています。古川日出男は、自身の混乱ぶりをさらけ出して、大切な故郷の惨状に打ちのめされた心情を綿々と書き綴るだけの作家では、決してないからです。

古川の小説の主人公は、過酷な環境やバックグラウンドに立ち向かい、サバイバルを図っていく強靭な人物ばかりです。彼ら・彼女らが運命を切り開いていくドライブ感こそが、古川の小説の魅力の根幹を成しています。そうした主人公たちは作者である古川自身の似姿でもあるはずで、そうであれば「馬たちよ、~」の「私」もまた、変わり果てた故郷=福島とともに東日本大震災に立ち向かっていくのではないでしょうか。

「馬たちよ、~」の混沌はたぶん、東日本大震災に見舞われた直後の福島の混沌そのものなのかもしれません。古川は自身のルーツである故郷の現実をありのままに描く技法として、(意識的か無意識的かはわからないが、結果として)こちらも自身のルーツでもある作家としての小説技法を総動員するという選択をしたのではないか…というのが、私の見立てです。

古川の人間性にも着目

本書に対する余談的な感想として、私は古川の人間性にも着目しました。古川自身でもある主人公の「私」は、本書ではずっと被災直後の福島に取材で立ち入ることを逡巡し続けています。

今は東京に拠点のある自分が福島に取材で立ち入ることの意義は何なのか?

これはただの物見遊山ではないのか?

立ち入ったところでどんな小説が書けるというのか?

そもそも小説を書くことが今の福島にとって、そこに居続けることを選んだ人々にとって、何の役に立つというのか?

そうした、「故郷が天災に見舞われた自分」を決して当事者とせず(それはきっと、福島に残ることを選んだ人々への思いとして)、常に戒めつづける逡巡です。

こうした倫理観や人間性を備えた古川だからこそ、今後も創作活動を通じて「東日本大震災に立ち向かい続ける人々・故郷」の何らかの力になれるのだーと、私は思います。